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第一回 大分公演曲目解説

渡辺和(音楽ジャーナリスト)

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ポール・メイエは冒険者である

 オーケストラの中で活躍する「縦笛」は、主に三種類ある。最も歴史が古く扱いも難しい高音担当のオーボエ、もの凄く長い管を束ねて抱きかかえ響きの土台を作るファゴット、もうひとつが広い音域を駆け抜ける新参者のクラリネットである。オーケストラを上と下でがっちり支える大黒柱となる生真面目なオーボエやファゴットに対し、クラリネットは色彩や表情付け担当の洒落者。そんなキャラクターを思いっきり強調したスターとしても振舞いやすい楽器である。そしてポール・メイエこそ、現代を代表するクラリネットのトップスターなのだ。

 ドイツとの国境に近いアルザスで生まれたポール・メイエは、13歳にして独奏者としてオーケストラに登場、パリとバーゼルで学び18歳でリヨン歌劇場首席に抜擢され、パリ・オペラ座、パリの世界一の現代音楽合奏団アンサンブル・アンテルコンタンポランにも席を得る。が、安定した職に留まることに満足せず直ぐに退団。ソリストとして世界中の主要オーケストラと共演するばかりか、様々な楽器名人らとの室内楽演奏、信頼する管楽器仲間との超絶技巧常設アンサンブルへの参加、演奏至難な現代作品や作曲家に腕を見込まれての新作初演、はたまたブラスバンドやオーケストラの指揮に至るまで、ありとあらゆる演奏活動を行い、人々を魅了してきた。

 そんな経歴から察せられるように、スターとはいえメイエはド派手なパーフォーマンス演歌歌手や過激ステージがウリのロッカーではない。あらゆる音楽に興味を抱き、ともかくやってみようとする、チャレンジャーなのだ。そんな冒険者の新たな挑戦は、モーツァルトがヴァイオリンの為に書いた協奏曲の楽譜のクラリネットでの演奏という試みだ。関係者に拠れば、日本中のオーケストラに打診したメイエだが、パーティに名乗りを上げたのはRentaroオーケストラ九州だけだったという。パリで活動するクラリネット奏者に尋ねても、オーケストラのコンサートマスターに尋ねてみても、そんなの聞いたことがないと驚く前人未踏の企て、こんぱるホールで展開されるのは異種間格闘技の緊張感溢れるインプロヴィゼーションか、はたまた楽器や時代や技巧を越えた普遍の美か。


瀧廉太郎:荒城の月

 大分県竹田郡長を父に瀧廉太郎(1879-1903)が東京に生まれた明治12年は、東京芸術大学の前身が設置された日本の西洋音楽黎明の年でもあった。明治の官僚だった父と共にルーツ大分を含む日本各地で幼少期を過ごし、帰京して15歳で同校に入学、20曲を越える歌曲と多数の幼稚園唱歌を作曲。竹田の岡城跡にインスパイアされ土井晩翠の詩に旋律を付けたとも言われるこの作品は、日本歌曲創出を目指した公募に応え1901年に作曲された。同年に初の男子国費留学生としてライプツィヒに派遣されたが結核を発病し帰国、大分で病気療養するも叶わず、ここコンパルホールから数百メートルの地で24歳の短い生涯を閉じることになる。

 廉太郎が創作したのは無伴奏の旋律のみで、後に後輩の山田耕筰が一部音符にも手を入れつつピアノ伴奏を付けたピアノ伴奏歌曲の楽譜で広く世に知られる。本日は、竹田を拠点に設立されたRentaro室内オーケストラ九州の演奏を目的にリブートされた楽譜で披露される。


メンデルスゾーン:クラリネットとバセットホルンのためのコンツェルトシュトック第2番 ニ短調

 哲学者を祖父に、裕福な銀行家の息子として超エリート環境で育ったフェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ(1809-47)は、音楽も絵画も習わないのにちゃんと出来てしまう文字通りの神童だった。ハイドンやモーツァルトが発明し、ベートーヴェンが艱難辛苦で鍛え上げたクラシック音楽の形を素直に受け入れ、真っ直ぐに天賦の才を育んでいくメンデルスゾーンのベルリンの豪邸では、家庭内コンサートも頻繁に開催され、ゲーテ以下著名セレブや名演奏家も頻繁に訪れていた。

 10代にして今も演奏される傑作を次々と生んだ若者が、既に作曲家として完成の域に達しつつあった1832年の暮れから翌年の冬、モーツァルトの頃にやっと楽器として安定したばかりのクラリネットのヴィルトゥオーゾだったベールマン親子が、ロシア演奏旅行の途中にベルリンを訪れる。メンデルスゾーン家に顔を出した名人親子のために、メンデルスゾーンはクラリネットとより大型の親族楽器バゼットホルンをピアノが伴奏するコンツェルトシュトシュトック(演奏会用小品)を作曲する。後にピアノパートを管弦楽に、バセットホルンを通常のクラリネットに改編した楽譜も作られ、ミニ協奏曲として愛奏されている。

 料理好きのベールマン親子は、メンデルスゾーン家の厨房に籠もって料理をしていた。その間に天才少年は2人が演奏出来る小曲をちゃちゃっと仕上げる。この譜面を気に入った名人親子は、もう1曲書いてくれと頼んだ。なんぼのもんじゃと作曲されたのが、このニ短調作品。メンデルスゾーン本人に拠れば、続けて演奏される3部分は最初の曲を書いたときのエピソードとのこと。プレストの第1部、「貴方の主題を用いています。カードでシュテルンさんから有り金巻き上げ、氏が激怒した姿をイメージしました」。バセットホルンのアルペジオに乗ってクラリネットが歌うヘ長調アンダンテの第2部、「先頃の晩餐の想い出。クラリネットは料理を待っている私で、バセットホルンは腹ぺこな胃袋」。第3部、ヘ長調アレグロ・グラチオーソのロンド、「演奏旅行先のロシアに合わせ、意図的に寒々とさせました」。


モーツァルト:ヴァイオリン協奏曲 第1番 変ロ長調K.207

 神童ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト(1756-91)は、5歳の頃から旅に生きた。ステージパパに連れられ、姉と共にミュンヘン、ヴィーン、パリ、ロンドン、アムステルダムと旅する。未だ鉄道はない18世紀半ば過ぎ、馬車を乗り継いでのトラベルは文字通りトラブルの連続。小さな子供たちがこれほどの大旅行をするなど、まともな事態ではなかった。このグランドツアーのおかげで、各地で最良の音楽や音楽家に直接触れたモーツァルトは、その最も美しい要素を統合し、中世末期以降の西洋音楽の最良のエッセンスを音にしていく。

 モーツァルトは神童時代からヴァイオリンを巧みに奏で、楽器の性格も音楽的特徴も良く心得ていた。ヴィオリンのための協奏曲も、装飾的なフレーズを多用し瞬間の美しさを重視。劇性を強調するわけではなく、独奏パートには超絶技巧名人には物足りないかもしれない音符が並んでいる。旋律の美しさばかりを求めても音階上下行の羅列になりかねず、再現には独特の魅力と難しさがある。

 第1番として知られるこの作品は、真作で5作品遺るとされるこの作曲家のヴァイオリン協奏曲の中でも、ちょっと性格の違う作品として論じられていた。行方不明だった自筆楽譜が1977年に再発見され、完成はイタリア旅行から戻って1ヶ月後の1773年4月14日で、2番以降の故郷ザルツブルグで書かれたそれ以降の作品とは由来が異なると認定された。南国の光を体に感じた直後の少年の魂が、素直に唄われる。第1楽章、アレグロ・モデラート。主題提示がオーケストラと独奏で2度行われる典型的協奏曲ソナタ形式。構成より自在に唄われる旋律が重要だ。第2楽章、変ホ長調のアダージョ。第3楽章、ソナタ形式のプレストが駆け抜ける。


モーツァルト:交響曲第40番 ト短調 K.550

 1788年の6月後半から8月の始め、成熟した音楽家となった32歳のモーツァルトは3曲の交響曲を立て続けに書く。作曲の理由は不明ながら、故郷を離れ帝都ヴィーンでフリーの身になり、ファン・スヴェーテン男爵のサークルでJ.S.バッハやヘンデルの勉強をしていたプロ作曲家が、金銭的裏付けなしに大作に専念するなど考えにくい。現在では、これらの連作作曲には何らかの出版確約があったと考えられている。典雅な変ホ長調、劇的なト短調、壮大で古い時代の作曲技法を意識したハ長調《ジュピター》を仕上げたモーツァルトは、残された3年の人生で更なる交響曲創作に向かうことはなかった。

 ちなみにこの頃のモーツァルトの経済的な困難を救ったのは、ファン・スヴィーテン男爵がその秋から始めた史上初の楽友協会(現在のヴィーン楽友協会のルーツ)での指揮の仕事である。つまり、モーツァルトは世界最初のヴィーンフィルの指揮者でもあったのだ。なお、今世紀に入り男爵邸でのト短調交響曲の演奏記録と認定出来る資料も発見されており、作品誕生を巡るミステリーにもいよいよ決着が付きそうだ。

 短調が支配し、一昔前の疾風怒濤の精神を端正な古典の枠組に落とし込みつつ、やがて来るロマンティックな精神まで見据えた劇的な音楽となっている。なお、初稿ではクラリネットが用いられず響きが小ぶりだが、木管パートにクラリネット2本を重ね、響きを豊かにした改定稿も存在する。第1楽章、アレグロ・モルトのソナタ形式。第2楽章、変ホ長調アンダンテの温和な歌にも、微妙な陰影が刻まれる。第3楽章、アレグレットのト短調メヌエットに、クラリネットは沈黙するト長調のトリオが対比される。舞踏音楽としての典雅な面影は殆どない。第4楽章アレグロ・アッサイ、ソナタ形式の終曲では、古典の枠ギリギリの転調にロマン派への息吹も。

(音楽ライター 渡辺 和)

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